シネマ歌舞伎『東海道中膝栗毛』--- コピーはオリジナルに劣るか

2017年6月上映(6月14日、神戸国際松竹)

 

昨年8月の舞台は見ず仕舞ながら映画版は大いに楽しめた。(恥ずかしながら原作は原文、現代語訳ともに未読だったので岩波文庫で今読み始めたところ。)

 

市川猿之助市川染五郎の共演はさすがこれからの歌舞伎を牽引する主導力だけあって上出来の舞台を生み出して当然だ。終映後の観客の反応(大阪ステーションシネマ)は無言の感動とでもいおうか。その感動がじわじわと伝わってきた。猿之助染五郎の主演作。ふたりとも芸達者、創造性豊か、それゆえ若い観客層に人気がある。たしかにお笑いネタを満載し過ぎてテンコ盛り状態ではあった。(あの渡邊守章教授がいり京都造形芸術大学杉原邦生が構成担当、戸部和久と猿之助が脚本(協同脚本ということかな?)。演出は猿之助。<猿之助>カラーが濃厚というべきか。

 

ちなみに杉原邦生(1982年生まれ)は昨年12月ポール・クローデル作『繻子の靴』を自ら翻訳演出し8時間あまりにおよぶ一挙上演を敢行したかの渡邊守章教授(1933年生まれ)が教鞭をとる京都造形芸術大学の卒業生。現在は演出家・舞台美術家、劇団KUNIO主宰者として活躍中。同窓で親交のある木ノ下裕一(1985年生まれ)は「木ノ下歌舞伎」の座長で渡邊教授の信頼厚く、『繻子の靴』で演出助手を勤めた人。

 

シネ歌舞伎で見る『東海道中膝栗毛』は娯楽作品として快作だ。しかし問題は上映時間が通常の勤務についている人には不便な時間帯だという点。(こんなすばらしい芸術作品を配給してくれている)松竹さんが営利を最優先するのはもっともだが、もう少し観客の事情にも配慮してもらいたい。(同様のことはメトロポリタン・オペラ映画版にもいえる。)

 

さて元ネタである十返舎一九の作品が秘める創造的エネルギーのすさまじさはいうまでもないが、その旨味を現代の感覚で引き出す若手芸術家たちも賞賛にあたいする。『東海道中膝栗毛』が若者に与えてきた影響力は無視できないだろう。過去40年ほどの人気はマンガ化からはじまった。1980年代は市東亮子・作『やじきた学園道中記』が女子高校生をコンビにした。ついで1990年代にはしりあがり寿のマンガが評判に。しりあがり寿の場合、2005年に映画化される。脚本・監督が宮藤官九郎弥次喜多コンビを長瀬智也中村七之助なので人気を読んで当然だ。さらにその2年後、今度はマンガを元にしていないが、手練の役者、故・十八代目中村勘三郎柄本明による異種格闘技もどきのわくわくさせる芝居。このふたりが弥次喜多コンビを結成すればおもしろくないわけがない。監督が平山秀幸監督で、この人はのちに岡田准一・主演『エヴェレストー神々の山嶺(いただき)』(2016年、夢枕獏・原作)でそこそこのヒット作を撮っている。私見だが、この2本の「弥次喜多」映画版は上出来の娯楽作品であるばかりでなく社会批評としても悪くはなかった。このように(おそらくいつの時代も)若者はその鋭い洞察力と新鮮な芸術的感性で他の世代も感動させる創造力を発揮するようだ。

 

では元の舞台版がどう評価されているのか気になって(お手軽すぎるかもしれないが、)ネット検索してみた。するとベテラン演劇批評家渡辺保氏に行き当たった(http://watanabetamotu.la.coocan.jp/REVIEW/BACK%20NO/2016.8-2.htm)。表題が「惜しい弥次喜多」なので今後の猿之助染五郎による新たな共演を期待しながらも辛口気味にならざるをえないのだろう。いわく、

「最初の歌舞伎座の劇中劇『吉野山』に弥次喜多が黒衣の後見で絡んで大失敗になるのは、かつての『雲の上団五郎一座』、つづく追っかけは野田秀樹の『研辰』、お化け屋敷から絶壁の上の小屋はこれもかっての喜劇の焼き直しで、むろん焼き直しでも面白ければいいのだが、その焼き直し方がもとの面白さを十分に理解していない。たとえば団五郎一座は後見がはじめから素人の弥次喜多だとわかっていなければ滑稽さが効かず失敗も生きない。あるいはお化け屋敷はちっともこわくないし、崖の上の小屋は一度傾くだけの上に、二人の動きがその傾斜につれておかしくない。これは何度も小屋が二人の動きで傾けたり戻ったりするから面白いのだろう。二人の芸で笑わせる見せ場がないのだ」。

 

オリジナルとコピーの差異を前提にしたこの論理はよくわかる。正論だ。わたしもどちらかというと旧世代だからだが。そうことわったうえで反論。けれども、ここでいう「おもしろさ」っていわゆる「本歌取り」のルールに則らないといけないのだろうか。古歌という元ネタが背景として生きていないとダメなのか。単なる模倣や気の抜けたパロディでしかないのか。わたし自身の矛盾をさておいていうと、新世代にとってオリジナルとコピーの分断は必ずしも有効ではないにちがいない。かつてボードリヤールが投げかけた真贋二元論に対する疑問をもちだすまでもない。

 

わたし個人のシネ歌舞伎の体験やネットに溢れるコメントをもとにすると若い観客層は本歌取りを意識せずに結構楽しんでいるように思える。かれらは1960年代の映画・TV番組「雲の上団五郎一座」を知るよしもない。2001年に上演された『野田版・研辰の討たれ』でさえ知らない人もいるにちがいない。以前中高年が中心だった歌舞伎ファン層に最近若い世代が加わるようになってきた現在、本歌取りを意識しろとはいえない。実際意識せずとも楽しめる。

 

また劇評にある「追っかけ」は映画用語の「ロード・ムービーroad movie」にも重なる。いやそれ以前に古代ギリシアの文学作品、ホメロス作と伝えられる『オデュッセイア』だって、歌舞伎、浄瑠璃の「道行き」だってロード・ムービーの精神に通じる追っかけだ。いかに野田秀樹が天才だといってもかれの純然たる独創ではない。野田は人類の文化遺産をふまえてみごとに独自の創造をやってのけたのである。

 

新作歌舞伎版「弥次喜多道中記」はやはりおもしろい。ただ、猿之助染五郎の新しい歌舞伎を創りたいという思いが先走ってかお笑いネタを満載し過ぎてテンコ盛りに終わってしまったところが惜しい。今回とは異なる弥次喜多道中のエピソードを組合わせる今後の改作、改訂を期待したい。

 

ついでながら、いうまでもなく本稿でいう意識的あるいは無意識的コピーはたとえば佐野研一郎がおこした「五輪ロゴ事件」や小保方事件など悪名高い贋作の事例とは一線を画すべきものだ。小浜逸郎の弁を借りると「明らかな盗用でないかぎり、著作権侵害をあまりに言い立てるのは慎みたい。制作物は過去の作品の模倣と継承によってしか成り立たないからである。人が真似してくれるのは自分の作品が優れているからだという余裕の心も必要である。ただし金銭的利害が絡む法的な問題は、これとは別であるが」(http://blogos.com/article/138296」)。

 

追記

あくまで個人的意見だが、並の人道主義的演出はご免こうむりたい。その意味で猿之助を中心に若い歌舞伎役者と外部の俳優が共演した『ワンピース』は猿之助たちの心意気は買うものの若干不満が残る。『東海道中膝栗毛』の場合、たとえばふたり連れの盲人(座頭)がふたりとも足を濡らすことはないとジャンケンで負けた方が相棒を背負って川を渡ろうとするシーン(場所は現在の静岡県掛川市内、江戸時代は塩井川とよばれた逆川)。座頭の弱みにつけこんで人に背負われてまんまと川を渡るはずの弥次喜多だったが、インチキがばれて結局ふたりとも川の中。「(気づいて座頭に川に振り落とされた北八)てあしをもがきながれるゆえ、弥次郎とびこみ引上れば、あたまからほねまで、くさるほどぬれ」てしまう(岩波文庫東海道中膝栗毛』上巻、三編ー下)。

 

この川渡りは内田保廣氏のブログによると、  

狂言『どぶかっちり』をはめ込んだ趣向として大変有名なシーンだが、狂言では弥次喜多に相当する「通りの者」が二人の盲人をだまして川も渡るし酒も飲む。その上報いを受けることも無く、だまされた盲人同士が争って終わる設定である。弥次喜多の場合には、どちらの場合でも報いを受けている。狂言よりは倫理性が高くなっているのである。」http://uchidayasu.cocolog-nifty.com/yulog/2006/09/post_a7f1.html

 

ここは人間の本性の一面をさらけ出す元の狂言を生かしてほしいところだ。相手の目が見えないことをいいことにずる賢く他人を利用する喜多八にこんなセリフをいわせてはどうかな。「近頃巷にはやるもの、うすっぺらな社会的公正とかポリコレ(ポリティカル・コレクトニス)。社会的公正、社会正義をまるでこわれものか箱入り娘扱いの昨今。なんでもかんでも善人ぶるのがはやるけど、人を出し抜くのもおもしろいぜ」とかなんとか小悪人を演じる皮肉もあっていい。