いまだに中共製検査キットに期待する報道しかしない日本のメディア

冷静沈着を誇る天下の『日経』さんは取材力脆弱。残念!

検査能力の続報一切なし。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO56697690S0A310C2I00000/

新型コロナ検査を15分で クラボウ、中国製キット発売

2020/3/12 12:41

繊維メーカーのクラボウは12日、16日に少量の血液から新型コロナウイルスの感染の有無を15分で判定できる検査キットを発売すると発表した。ウイルスの遺伝子を検出する「PCR法」に比べて検査時間を大幅に短縮できる。提携先の中国検査薬大手が開発した。この手法を使った新型コロナ検査キットの国内販売は初めてという。

クラボウが発売するキットは「イムノクロマト法」というインフルエンザ検査キットなどに使う手法を使う。キットのくぼみに少量の血液と検査試薬を垂らすと、陽性の場合は15分で赤い線が浮き出る。新型コロナに感染した人の血液中の抗体を95%の精度で検出できるという。中国では医療現場で既に採用されている。

あらあら、取材力自慢の『讀賣』さんまで。

15分で判定・精度95%、新型コロナ検査キット販売へ…中国から ...

www.yomiuri.co.jp › economy

2020/03/12 

中共に経済不況という弱点をつかまれたチェコとスペインの悲劇

わがニッポンのジャーナリズムは中共製コロナウィルス 検出キットについてはダンマリを決め込む

minorメディアのEpochtimesのみが報道!

https://www.epochtimes.jp/p/2020/03/53804.html

中共肺炎>スペイン、中国製検査キットの感度30% 「使用する意味がない」と返品へ

2020年03月27日 13時54分

<元ネタ>

現地スペインの EL PAÍS(The Country)紙英語版によると

中共製コロナウィルス 検出キットは精度がわずか3割。本来8割の精度であることが医療界の常識。案の定中共は当該出荷業者が中共政府の承認を得ていないことを理由に責任回避。やれやれ。

Unreliability of new tests delays effort to slow coronavirus spread in Spain

Health officials say the material was bought from a Chinese company that met EU criteria, but China says the manufacturer did not have an official license to sell its products

https://english.elpais.com/society/2020-03-27/unreliability-of-new-tests-delays-effort-to-slow-coronavirus-spread-in-spain.html

ELENA SEVILLANO

Madrid - 27 MAR 2020 - 11:24 CET

Spanish health authorities said on Thursday that they have returned a shipment of rapid diagnostic tests purchased from a Chinese manufacturer after these were found to be unreliable in detecting the SARS-CoV-2 coronavirus.

Health Minister Salvador Illa said the government has sent the tests back to a company named Shengzhen Bioeasy Biotechnology after Spanish microbiologists reported that the first 9,000 tests correctly identified positive cases only 30% of the time, when experts recommend a sensitivity of at least 80%. The story was first reported by EL PAÍS on Wednesday, and the Health Ministry has since confirmed it.

<中略>

The leader of Spain’s main opposition party, Pablo Casado of the Popular Party (PP), said on Twitter that Prime Minister Pedro Sánchez “must explain why the government did not validate the tests he bought that do not work, and whether these were bought from an unlicensed company, as China says. If so, we are dealing with a lack of responsibility that must have consequences.”

中共(中国)製コロナウィルス 陽性・陰性判別装置はなんと8割の確率でエラー

https://www.epochtimes.jp/p/2020/03/53733.html

3月26日<中共肺炎>チェコ中国から購入した検査キット エラー率8割

中共ウイルス(新型コロナウイルス)の流行が世界に拡大するにつれ、中国はヨーロッパへの医療品の販売や支援を続けている。いっぽう、東欧チェコのニュース(下記の英字新聞Prague Morning)によると、中共から購入した検査キットは、80%が不良品で、信頼性に欠けるという。

元ネタ:

https://www.praguemorning.cz/testing-kits-czech/

中共べったりの大統領Miloš Zeman(ミロシュ・ゼマン)率いるチェコは一週間あまり前、中国に軍用機を飛ばして3月18日中共に感謝しながらウィルス検査キットを積み込んで即刻プラハのクベリィ空軍基地に帰還

Czech aircraft landed in Prague-Kbely at on Wednesday morning at 2.30, carrying 150,000 testings kit for the coronavirus disease COVID-19.

検査キットの代金は2億3千万円あまりだったそうな。

ところが、それから1週間後、検査キットのインチキぶりが判明

https://www.praguemorning.cz/80-of-rapid-covid-19-tests-the-czech-republic-bought-from-china-are-wrong/

80% of Rapid COVID-19 Tests the Chech Republic Bought From China are Wrong

Prague Morning, March 26, 2020

 

Up to 80 percent of the 300,000 rapid coronavirus test kits ordered that the Czech Republic ordered from China are not working properly, according to regional hygienists who have tried the tests.

The test kits, worth 54 million korunas (€1.83 million), show false positive as well as negative results. This is because rapid tests cannot reliably detect infection in its initial phase.

The information came from hygienists from University Hospital Ostrava in the east of the country. Health officials thus labeled the rapid coronavirus tests as unreliable as they allegedly failed in 80 percent of cases. As an example, health experts described a case of a man who tested positive for coronavirus, but the following test showed that he was not infected.BY PRAGUE MORNING

反大統領の論陣を張るチェコ国会外交・国防委員会委員長のPavel Fischer 上院議員

3月26日付(政府・大統領寄りらしい)メディアČeský rozhlas (Czech Radio)で

中共習近平にかしずくゼマン大統領を激しく非難。先月だったか大統領は中共が譲ってくれた大量のマスクに大喜びしたらしい。

Český rozhlas (Czech Radio)

https://www.irozhlas.cz/zpravy-domov/cina-zdravotnicke-pomucka-letadlo-vztahy-s-cinou-pandemie-koronavirus-letecky_2003261614_ban

Čína si vítání letadel s rouškami u vlády objednala. Jednají s námi jako s lokaji, míní senátor Fischer

Zdravotní pomůcky z Číny teď už každý den přistávají na českých letištích. Zaplatili jsme za ně kolem tří miliard korun. Úplně první zásilku vítala na letišti doslova vládní delegace. Podle senátora si to Čína u naší vlády objednala.

„Tady se stala chyba už před čtyřmi roky, kdy se poslal ponížený dopis čtyř (nejvyšších ústavních činitelů) do Pekingu. Od té doby s námi Čína jedná jako s lokaji,“ říká nezávislý senátor a předseda výboru pro zahraniční věci, obranu a bezpečnost Pavel Fischer v Interview Plus.

<注記> google翻訳で英訳するのが便利です。

弱者・強者をめぐる伝統的二元論を問う

TTRプロジェクト京都公演『蝉丸』替之型

2019年12月21日 金剛能楽堂

大槻文藏(蝉丸)、片山九郎右衛門(逆髪)、福王茂十郎、福王知登、中村宜成、小笠原匡、竹市学、成田達志、山本哲也

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 出演されたシテ方ワキ方狂言方囃子方はどなたも達者な面々ばかりでおおいに楽しめた。

 能『蝉丸』と聞けば人は『百人一首』(初出は『後撰和歌集』)で知られた次の歌を思い出すだろう。

   これやこの行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関

 作者は能楽の場合と同様に蝉丸。前者が和歌の名手蝉丸をヒントにした想像上の人物であるのに対して後者は平安時代初期の実在の歌人らしい。ただし生没年や生涯は史実として確認できず伝説上の人物に近い。

 能『蝉丸』をめぐっては以前から国文学と民俗学の交差点で種々の議論を呼び起こしてきた。民俗学者たちは蝉丸ともう一人の主要人物(主役)である蝉丸の姉(と設定されている)逆髪とが逢坂の関で出会う「サカ」(坂、境、堺、境界)に注目する。境界論といえば、とりわけ赤坂憲雄の論考が有名だ。ことさら言うまでもないが、30年前に出版された『境界の発生』(1989年)はいまだに刺激的だ。「逢坂の関」という坂、境。さらに関も境界に他ならない。

 実在の蝉丸の手になる和歌も京の都へ向かう人と都を離れて遠国へ去る人とが出会い、すれ違う場所としての逢坂の関に強くこだわる。逢坂という坂の呼び名も元々の(何度か変更された?)のかどうか、当て字の変化も今となってはわからない。ここで出会う人々は進む方角が<真逆>である事は確かだ。

 そもそも坂・サカは対立する価値観が出くわす場所である。『世界大百科事典』(平凡社)によると「坂といわれる場所が地域区分上の境界をなしたり,交通路の峠をなしたりしている事例が少なくないことは,語源に関する諸説の中ではとくに重要とみられる」とある。そういう古代からの日本人の思考は記紀神話に描かれる「黄泉比良坂」が現世と冥界を区切る境界と見なされていることにもよく表れている。<サカ>は紛れもなく逆さま、転倒、逆転の場なのだ。

 蝉丸伝説と結びついた逢坂の関は「坂神(さかがみ・さかのかみ)」信仰が古代から育まれていた地域の一つらしい。坂神信仰・伝説が「逆髪」に転化したと言われる。能『蝉丸』では蝉丸の姉が生まれつき逆立っている毛髪を理由に「逆髪」と呼ばれる。また一説には蝉丸自身の髪が逆立っているとも(小学館大辞泉』「逆髪祭」の項目)。とにかくサカは(境界としての)坂であれ(正常に対する異常の意味の)逆であれ、価値の対立・逆転・転倒を表す点では共通する。

 物語の背景や文脈ばかりでなく登場人物の設定もこの<サカ>の意味合いを強く感じさせる。蝉丸は醍醐天皇の第四皇子だとも言われるし、姉である逆髪も当然皇族の血を引くことになる。それにもかかわらず宮廷では二人ともに身体の異常を問題視される。蝉丸は盲目、逆髪も身体の常軌から逸脱していると見なされる。この姉弟の身体は尊い血筋と(仏教伝来以前であれ仏教思想の影響下であれ)ケガレなど当時の支配的倫理観がせめぎ合う<場>だということになる。

 ところで身体的に「自然」、「正常」ではないと見なされた二人の皇族姉弟に対して最近日本的リベラリズムに馴染んだ人たちから弱者の人権を擁護する視点が表明されている。(日本的リベラリズムと言ったが、従来日本と比べると客観性に優れると思えた欧米諸国のジャーナリズムが自分たちが犯した非西欧世界に対する暴力的植民地主義を忘れたふりをする現状からすればこういう綺麗事大好き傾向は世界的というべきか。)彼らによると世阿弥が蝉丸や逆髪に差別され、虐待される存在の悲しみを仮託したと解釈する。

 しかしこの解釈はえッ!ホントに?とツッコミたくなる。いくら世阿弥が権力者が入れ替わるたびに寵愛と酷遇の変化に翻弄されたとしても現代と同じ感覚で弱者の権利主張をしたとは思えない。足利義満をはじめ時の(絶対的)権力者の庇護なくしては能(や狂言)は芸術的進化をとげなかったはずだ。観阿弥世阿弥や他の主だった能役者は権力者との間に絶えず緊張を強いられる関係を維持し、その関係が強いる重圧に耐えたからこそ単なるエンターテインメントや宗教行事のお供え物の域を抜け出し、当時の階級差を越えて人々の感動を呼ぶ芸術的高みに達することができたのではないか。現代社会が理想とする(差別なき)社会や人間関係が能の芸術的進化に必須だとは言い切れない。人間社会がある限り敵対関係や対立抗争は不可避に違いない。残念ながら、愛情あふれるはずの家族関係でさえも悲惨な状況を生み出すことは昔も今も変わらないのが人間の現実である。

 70年余り前壊滅的な敗戦を経験した日本。この時期の日本はいわゆる封建主義的価値観に支配されていた能が明治維新の場合よりも一層激しい変革を迫られた。だがその変化が能に対して有意義な刺激を与えたかというと必ずしもそうとは言えない。現に若き観世寿夫(1925-1978)が当時の能楽界の現状に対して抱いた不満はいまだにすべて解消されたわけではないと思える。

 いつの時代にも形を変えて社会的差別、抑圧、弾圧は発生する。そういう社会的不合理をなくすと明言したコミュニズム国家がいかに悲惨な状態にあるか思いおこせばいい。このことが皮肉にも強者(権力者)と弱者は入れ替え可能だと証明したようなものだ。

劇場での観劇マナーの良し悪しとは? ー ボリショイ劇場で気づいたこと

先月(2019年11月下旬)ボリショイ劇場を初めて訪れた。オペラ3作とバレエ1作を出国前に劇場版HPでeチケットを購入済みだった。11月25日成田の悪天候が災いしてモスクワ到着がかなり遅れてしまい、当日午後7時開演だったオペラ『セルビアの理髪師』は諦めざるをえなくなった。翌日小品2本立て(1幕物2本)のバレエModanse: “Like a Breath” & “Gabrielle Chanel”) を観劇。ボリショイはオペラもさることながらバレエも大いに期待していた。伝統的スタイルのバレエで修練したダンサーがモダン・ダンスの舞踊スタイルもこなすのかと素人臭い興味も湧いた。しかも2本目の主役)ココ・シャネル役)はボリショイのベテランプリンシパル、スベトラーナ・ザハロヴァだ。(バレエの初級観客たる)40歳になっていてもこれだけの綺麗な動きを見せる彼女には驚嘆に耐えない。

 

筆者の席は3階バルコニー(部隊に向かって右側)でお値段1万6、7千円。でも舞台よりのお隣の区画が我が区画より多少出っ張っているので視野が狭くなる。その上そのお客さんが前のめりになる。その結果舞台の左半分しか見えない。しかも出演者は(私から見て右手から登場し、左手で踊る時間が短かった(と筆者には思えた)。

 

翻って日本の観劇マナーを考えると、前のめり観劇はタブーとされているように思う。歌舞伎座などでは場内アナウンスで後方の席の人が見にくくなるので前のめりになってみないようにと警告が出される。しかるべき入場料を払っているのに不平等な扱いを受けるのは納得できないという社会全般の暗黙の合意があるからだろう。70年余り前太平洋戦争で負けてからというものやたらと「平等主義」がはびこり、悪平等じゃないかと思える事例が頻発する現代日本

 

だが、今回モスクワでは上演中に声高に喋るのは不可にしても、各自が静かに、よりよく見れる姿勢で観劇するのにケチをつけなくてもいいじゃないかと思えてきた。視野制限ありの座席が嫌なら一階平土間の前の方の席を確保すればいいだけ。ただし、高いのは覚悟すべし。

 

実際平土間でも観劇した。『スペードの女王』がそれ。平土間前から6列目、中央区画の左端だった。幸い前に大柄な観客もおらず視界はよかった。だけど休憩挟んで4時間近い舞台は特別インパクトのある舞台装置や演出でもなくやや退屈だった。もっと過激な解釈をすれば長丁場も飽きずに楽しめたような気がする。

 

今回予定していた4作のうち最初の『セビリヤの理髪師』は飛行機便の延着ゆえやむをえない。一方モスクワ最後の夜(11月29日)をオペラで楽しむつもりが突然の公演キャンセル。開演数時間前にメールで連絡が来る。どんより曇った寒い、と言って摂氏零度くらい、昼過ぎのプーシキン美術館前でメールに気づいた。タイトルに”Your cancel details”とあるので何かの手違いでこちらからキャンセルしたことになったのかと思ってしまった。しかし購入者都合でeチケットのキャンセルはありえないし、返金手続き完了とあったので落ち着いて考えれば劇場側の都合で公演中止になったのだった。こんな次第で5泊したのにボリショイ劇場の舞台は2本しか楽しめなかった。残念。

 

それに比べると3年前の11月、同じく5泊したサンクト・ペテルブルクではミハイロフスキーとマリインスキーでオペラやバレエを堪能できたのは幸運だった。

 

ちなみに上記の2本立てのバレエはモスクワの後ロンドン公演になったようだ。The Guardian紙の劇評はやや辛口。 https://www.theguardian.com/stage/2019/dec/04/svetlana-zakharova-coliseum-london-review-bolshoi-ballerina-coco-chanel

 

このバレエ作品とオペラ『スペードの女王』に関する出演者は次のサイトが詳しい。 https://operaandballet.com/classical_ballet/bolshoi_Svetlana_Zakharova_Ballet_Gala/info/sid=GLE_1&play_date_from=01-Nov-2019&play_date_to=30-Nov-2019&playbills=45882 https://operaandballet.com/opera/big_bolshoi_The_Queen_of_Spades_2018/info/sid=GLE_1&play_date_from=01-Nov-2019&play_date_to=30-Nov-2019&playbills=45908

加古川本蔵と大星由良之助は肝胆相照らす仲だ

大阪国立文楽劇場

2019年11月公演 夜の部

通し狂言仮名手本忠臣蔵』(八段目より十一段目まで)

前 竹本千歳太夫、豊澤富助

後 豊竹藤太夫、鶴澤藤蔵

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このうち「山科閑居の段」が強く印象に残る。この段で注目したいのは高師直に侮辱された塩冶判官が師直に怒りの刃を向けるが、それを制止、いや妨害したのが加古川本蔵だ。大星由良之助らが敵対する師直の家来ではないものの、行きがかり上いわば敵役の加古川本蔵が内に秘めた本心を吐露するのがこの段である。歌舞伎特有の人物造形である「モドリ」の一例として悪人と思えたのが実は善人だったという(元の本性にもどる)仕掛け。

 

作品自体は18世紀半ば、江戸時代の価値観を背景にしていて武家社会の忠義が賞賛すべき徳目とみなされている。

 

私は長いこと忘れていたのだが、原作では本蔵自身が大星由良助たちと同じ苦境を経験し心情的にも共通すると明示されている。本蔵が仕える桃井若狭之助は直情的な性格ゆえに師直から侮辱されるが、本蔵は君主の立場を保全するために賄賂を使って事態を現実的に処理した経験をもつ。原文はつぎのとおりだ。

 

「当春鶴丘造営のみぎり、主人桃井若狭之助、高師直に恥ぢしめられ、もってのほか憤り(略)明日御殿にて、出つくはせ、一刀に討ち止むると、(略)止めても止らぬ若気の短慮、小身ゆゑに師直に、賄賂うすきを根に持つて、恥しめたると知つたゆゑ、主人に知らせず、不相応の金銀、衣服、台の物、師直に持参して、心に染まぬへつらいも、主人を大事と存ずるから」(『新編日本古典文学全集』 77 「浄瑠璃集」、小学館、2002年,125-6頁)。

 

むやみやたらに理想を振り回さない、いわば有能な官僚なのだ。そういう本蔵が由良助の苦境を理解していて当然だし、自分と同じ苦い経験をさせまいと主人同様直情的な塩冶判官の刃傷沙汰を制止したのだ。君主に使える武士として彼は彼なりに最善を尽くしたと言える。

 

しかし由良助らは忠義に殉ずべき武士道にもとると理解して、いや誤解してしまう。その誤解もこの段で本蔵が自らの命と引き換えに(正義というと意味がぼやけるので)「正しい道」という意味での「義」を貫いて見せる。それを由良之助もようやく理解するという設定だ。

 

ここで思うのだが、江戸時代ならいざ知らず21世紀の現代にあって「忠義」はもはや正しい道とは言えない。「義」ではない。このくだりを見た観客は本蔵の死に様を通して普遍的な人間としての正しいあり方、義の意義を感じとるのではないだろうか。だからと言って死を賛美しているのではない。この場合たまたま死が関与しているが、人は現実原則を超越した理念としての正しさ、義を追求するのが本来の姿だと思える。

 

その点では現代人にとって由良之助ら忠臣蔵伝説の面々も変わるとことはないはずだ。封建的イデオロギーの忠義にもはや感動することはできない。人間性の理念的相貌に憧れるからこそ忠臣蔵伝説が今なお人々の心を捉えるような気がする。加古川本蔵は単に歌舞伎的モドリの見本ではない。本蔵と由良之助が象徴する価値観は互いに似ている、相似の関係にある。原作でも忠義をキーワードにして二人は互いに相手の姿を映し出すことで忠義という武士道の徳を浮かび出すことになっている。

 

だが、現代にあっては忠義ではなくはるかに高い次元の人間の普遍的な徳、つまり正しい道の探求、さらには至高の善の追求にとってかわらざるをえないだろう。

 

奇しくも同じ文楽劇場では去る11月6日毎月恒例の「伝統芸能公演記録鑑賞会」で歌舞伎版『仮名手本忠臣蔵』「山科の段」(国立劇場、1974年12月)を見た。加古川本蔵は八代目坂東三津五郎、大星由良之助を十四代守田勘弥が演じた。この歌舞伎版では本蔵は己の過ちを悔いて自ら進んで大星力弥の槍に突かれて絶命する。塩冶判官の怒りを理解しながらも事態を穏便に解決すべきだという善意の心から塩谷判官を制止したためにお家断絶にまで行き着いてしまったこと。そればかりか相思相愛の力弥と実子小浪の仲を引き裂くことになった。こう言う己の過ちに対する罪滅ぼしが本蔵の本心だという設定だった。本蔵が仕える桃井若狭之助が師直のせいで追い込まれた難局については触れられない。これはこれで忠義心の鑑たる由良助を浮き彫りにする一つの演出法には違いない。ただし、これでは『仮名手本忠臣蔵』も時代劇の範疇に止まらざるを得ない。

 

その点今回の文楽版は誇り高いツワモノたる加古川本蔵の男気ではなく一個の人間としてあくまで筋を通す決意ぶりに感動した。

名優が演じる歌舞伎は<現代劇>だとつくづく思う

新作シネマ歌舞伎女殺油地獄』(幸四郎猿之助主演)

映画版監督:井上昌典

 

歌舞伎界の「若手」リーダーたる松本幸四郎市川猿之助はこれまで10年近い地道かつ冒険心溢れる奮闘が現代歌舞伎の活性化に大きく貢献していることがこの映画版(昨年7月初演)でよくわかると思う。もはや使い古された評語だがポストモダンという表現が幸四郎(河内屋与兵衛)と猿之助(手嶋屋七左衛門女房お吉)のコンビで実現した『女殺油地獄』がピッタリではないか。江戸時代の歌舞伎が現代劇であったと同様21世紀を生きる観客にとってこの新版『女殺油地獄』は、へーえッ、昔はそんなエグい刃傷沙汰もあったのか、時代劇って面白いね、とは言えない迫真性が印象に残る。人間皆平等と平和に染まっているような現代社会にも一皮向けばいつの世も変わらない奥深い闇が潜んでいることをこの作品は思い出させずにおかない。それでも人は生きていく。誰に強制されるわけでもない。生きたいのだ。いわば限りない絶望と限りない希望の奇妙な共存。

 

9年前には同じ芝居が片岡仁左衛門(与兵衛)と片岡孝太朗(お吉)のコンビで上演され、後にシネマ歌舞伎として上映された。与兵衛を演じた仁左衛門は上質のモダニストという意味で幸四郎のポストモダニストとは好対照だと思う。舞台を見た記憶はおぼろげだが、仁左衛門は事故の中に蠢く愛矛盾する欲望の葛藤を虚構の世界で説得力ある演技で描き出していたように思う。

 

今回の新作シネマ歌舞伎は純粋な歌舞伎作品ではなく松竹の映画監督井上昌典の構成・演出が重要だ。歌舞伎の観客席では味わえないアングルからのカメラワークやクロースアップなど映画独自の手法が大いに効果をあげている。そのインパクトは今から50年昔の篠田正浩監督による歌舞伎の映画化作品『心中天網島』(1969年)と比較しても勝るとも劣らないと言えるだろう。このような歌舞伎と映画の葛藤というか融合というかかなり困難な出会いを実現したのは井上監督ばかりでなく映像編集に参加した松本幸四郎の熱意とパイオニア精神に富む芸術的感性にも注目したい。

 

伝統は墨守するものではなく革新、変革を伴うのだということが納得できる作品である。創成と成熟の時代であった400年以前お歌舞伎は時代劇ではなかった。当時の観客にとって<現代劇>そのものだった。現代の観客がとかく忘れがちな当たり前なことを幸四郎猿之助の共演が思い起こさせてくれた。